昭和43年08月23日  月次祭



 ところが今日はね、あちらへ先生方が参りましたらもう言われるのにね、今度と言う今度今度もし私が命頂いたらおかげ頂けれるようになったら、もう本気で信心をさせて頂く、今までは生活の中に信心があった、こんな事じゃいけない事が今度いよいよ分った。信心の中に今度は生活を求めて、生活の中に信心ではなくて、信心の中に生活がある。そういう信心を今度おかげ頂いたら、おかげ頂きたいと言うてくれぐれも、其の事を親先生にどうぞお伝え下さいと言う事であったそうです。
 私しは思うんですけどもね、現在の合楽の信心は其の事ばかりを、皆さんに求め又はお話しも、其の事ばかりを聞いて頂いておると言う感じであります。信心生活と一口で申しますけどその信心生活と言うのがです、生活の中に信心がある、所謂生活が主であり信心は従の立場で、是ではなくて。信心が主の立場であり、そして生活が従の立場と言う在り方、信心の中に、信心の中に生活があると言うおかげを頂いたら。
 いよいよ神様の願いである所の、信心の理想郷と氏子の、いよいよ救い助かっていけれる道が、ハッキリそこから頂けて来る、今までの信心は、何かあるとそれを神様にお願いをして、おかげを頂くと言う生き方であった。そう言う生き方ではいけない、言わば今度の言わば得体の知れない、病気になって上滝さんを誘ったんですね。そして今度おかげを頂いたならば、信心の中に生活1にも生活2にも生活。
 もう生活そのままが神様の御用だから、これがお道の信心で言う修行なんだからと、いう取り組み方もある。本当にお商売なら、お商売させて頂いている、其の事を修行と頂く頂き方、けれどもね是はどこまでも、今上滝さんが言うておりますような所なので御座います。ですからこれは上滝さんに限った事ではありません、お互いの信心がどうでも、信心の中に生活があると、でないとですね馬鹿らしゅうなります。
 信心に一生懸命打ち込んどってもですね、その考え方がです、只おかげを戴く為に、一生懸命打ち込んどるのであったらですね、参るこつばっかり、参りよるがですね、御用だけは、一生懸命させて戴きよりますけども、なんとはなしに、そこにですね、お互いの心の中に、それこそ、秋風が吹きそめる頃になると、それこそ寂しい風が、心に吹き通って参りますとです、一体全体これは、神様神様言いよるが、と言うて、信心している事が寂しい事になります。
 それは自分の思う様になればそんな思いはしません、都合のいい事ばっかりお繰り合わせ戴けば、はあ信心のおかげで毎日お参りしよるけんで、おかげ頂くと言う事になってきますけどね、それが右と願っても左、左と願っても右が続けて出て来る、とですね信心が所謂寂しゅうなって馬鹿らしゅうなって来る信心本来の例えば、神の願いと言った様な物が感じられなくなって来る。
 自分の願いが成就しないと寂しゅうなって来る、そこを例えば上滝さんは、十何年間の信心によって今度の言わば得たいの知れない大病によって、分らしてして戴いておると言う感じであります。其の事をくれぐれも親先生によろしゅうお伝えして下さい、今度私が再起のおかげを戴いたら、今度こそ信心の中に生活と言う在り方にならせて戴きますからと言う、て大変喜んで其の事を話したと言う事でございます。
 それ聞いてからなる程、この人中々理解力もありますしね、精進努力もする人ですから、今度と言う今度は、それが分ったと言う事であろうかと、言う風に思います。お互いが分ってはおりますが、果たしてそう言う事に、一生懸命お参りはしよるけど、果たして信心が主になっておるだろうか、信心の中に生活があるのだろうか、信心が主になるとこう言う事になるんですよ。
 例えば今日は月次祭、まだ仕事が残っておるお百姓さんとしましょうか、もう是もせんならんあれもせんならんもうそりゃ言やあぁきりがない程仕事がある、何時もは7時まで、言わばまだ明るいまでは、畑に出ているけれど、さあ今日はお月次祭ぞと、さあ今日はいつもより1時間早く切り上げるぞと。皆んなが1時間早く切り上げる、1時間早く炊事のご飯も戴けるようになる。
 そして時間に遅れん様にキチッとここへお参りが出来る。これはね信心をあの信心を中心にしておる、神様を中心にしておる、自分が中心ではなくて神様を中心にしておると、これがもうやってのけられるのです。何故って信心が主ですもん。信心が主ですからそれがやってのけれる。けれどもおかげば戴く為に、さあ早よ参ろ一家中で参ろと言うのとは大分違う。そげんして参りよっても、例えば思う様にならんとそう言う信心では、本当に一家を上げて、合楽合楽とぼうけた如して信心しよるが。
 果たして是でよいじゃろか、と例えば思う様な事が出来なくて、それが続くとです、所謂心に秋風が吹いて来るのです。ですからなかなかそれは難しいんです。ですけどもここんところを一つ本気で悟らして貰うてですね、自分の信心は本当に信心即生活であるか、生活が即信心であるか、私し共の場合はどこまでも信心が主である。生活が従であると言う様なおかげが、はあこげん忙しかとに、合楽にお参りするとですか、と例えば言うかね家内が主人に、そう言う事を言わんで済むのです。
 この忙しいと言う事なんかは、もう信心の前には、問題ではないのです。自分の人情と言った様な物は、もうで用がない。是は例えば、お参りとかね、そう言う事だけじゃないです、もう一時が万事に、神様を中心に申し上げる信心、こりゃもう、信心が楽ぅにでける用になります。そこからです、願わんでも頼まんでもと言うような、楽ぅに戴けて来る道が開けて来るのです。
 一生願い続けると言うのではなくてですね、皆さんそこん所をひとつ分って戴きたい、こりゃもう何時も申しておる事で御座いますけども、果たして自分がそう言う事になっているだろうか、お参りは毎日させて戴きよるけども、それはおかげ落とさん為、またはおかげ戴く為、神様中心であるから信心が中心であるから、信心が主であるから、それがでけておると言う事であったら、有難いです。
 ここにひとつ自問自答して見てご覧なさい、毎日参りよる参りよるけど矢張り仕事が主であり信心は従である、それではね、スキッとした事になって来ないのです。そこで例えばどうしてこげん遅かったか、それがああたもう忙しゅうして、忙しゅうしてと言うてその言い訳せんならん事になって来る。そすと言い訳ばっかりしてと言う風に響く訳ですこちらに。信心に言い訳はならんと、言う事にまでなって来る訳です。
 もし例えばそう言う事であっても、只お詫びする意外ない、信心の生活と言うのは何処までも、ひとつ神様を中心に申し上げた、信心が主にある立場での信心を戴かせて貰う、そう言う私しは、合楽は過度期にあると思う。先程も田代さんが戴いておるお知らせに、お夢の中に、椛目から合楽にかけての、言わば是は合楽の信心の激動期だ、激しく動いておる時なのだ、確かにそうなんです。大きな船に乗っておるしかもそれが海の上でなくて、軌道に乗っておる、それが前んとが倒れた、後ろに乗っているのが一生懸命祈念をして、それが又、正常に戻る事を願って行っておると言う様なお夢であった。
 だから今大船に乗った気持ち、合楽と言ういわば信心の船にお互いが乗っておる。けれどもそれは安心と言う事ではない、お互いが祈り合い助け合って行かなければならない時にある。しかもその大揺れに揺れておる様な所謂激動、それは只椛目から合楽に移って、こう言う見事なお広前で、信心の稽古が出来る様になったと、言う様な事も激動のひとつで御座いましょうけれども。 
 只今も申します様に、お互いの信心生活が、本当の信心生活が出来る為の、私共が中心、人間が中心の信心から、神様を中心に申し上げた、信心に変わって行く所の、私しは激動期にあるんだと私は思うのです。現在合楽におかげを受けておる人達がです、そこん所の信心の基礎と言うか、手本をひとつ作って下さると、あとは楽です。あん人達について行け云う事にとなるのです。 どうぞひとつ信心が、従ではなく信心が、主になっておる所の信心を戴いて貰いたいと思います。
 どうでしょうかね皆さん、そう言う事になっておるでしょうか、そう言う例えば激動期にある合楽の事で御座いますから、それこそ前んとが倒れたら、後ろの車が後ろの船が祈って行くと、前の車は後ろを祈って行くと言う様に、祈り合い助け合いしてまあ行かなければならない時にあります。上滝さんの、今度の病気の事について皆さんが、一生懸命お祈りぞえをなさって、おられると言う事もそれである。
 今日はお見舞に行かれるにあたっても、矢張り美登里会全体の方達も真心込めての、お取次ぎを願われます。そしてお願いをしてからあちらへ行かれました。そして改めて言わば感じる事改めて分らせられる事、そう言う死ぬか生きるかと言った様な事になって気がつくよりも、例えばそう言う私は皆さんにおかげを受けられると言う事がです。一つ本当にもう一にも神様二にも神様と言う、信心にならせて頂かねばなりません。
 それにはお互いが手を取り合って、願い合い助け合いと言うのがいるので御座いますから、どうでもここにひとつ、合楽全体の信心の調子と言うものが、揃わなければなりません。調子が揃わん所にです、一生懸命にああたの事を思うておる。こっちもあんたの事思うておるその思うておる事が、にも関わらず、調子が合ってないとですね、一本一本の調子はおうとっても、親糸にあってませんもんですから、それが乱れて来る。
 今日夕方家内が、私が30分ぐらい前に、お装束つけてこちらへ出ようと思いまして、で家内が装束持って来て、こちらの冷房の入ってる部屋で、着せようというのですね、何時もこっちのぬくい所で着ますけど。家内としてもだから、私しが少しでも楽な様にと思うて、わざわざ、裏まで持って来てくれてる訳です。言うなら、私の事を思うてやってくれてる訳です。
 所がまだ家内が、そのお風呂にも、入っていない風で御座いましたから、お前お風呂入ったかと言うた所が、うんまだ今女の方達が何人も一緒に入ってからとか、なんとかかんとか言う、だから入っとらんと言う、なんとかかんとか言い訳せんで、入っとらんなら入っとらんといやいいけど、その(笑って)言い訳が多すぎる。と言うのも私し、月次祭たんびに言うとる。
 せめて月次祭ぐらいは1時間なら1時間早よう夕食の方を準備させて貰うて、さあもう後は知らんよと言うぐらいに、スパッと切っといて、そしてお風呂にでも入っておいて、月次祭には体も清め着物も着替えさせて戴いて、拝ませて戴く様な、おかげを戴けと言うのが、私の家内への言い分なんです、それが度々なんですけども出来ない、度々出来ない、私しも家内がそうした方がよかろうとこう思うから言うとですよ。
 なら家内も私が涼しい所がよかろうと思うて、わざわざ裏まで持って来てくれてる、その真心がですね、ひとつも私しに通うて来ない。あたしが言いよる事も度々言いよる事だけども、ひとつも通うてこない。なら私も家内の事憎うて言いよるとじゃない。早よう夕方けりをつけてから、お風呂どん先に早よう戴いて、そしてさっぱりしてからお祭り戴いたら良かろうと言うのが私の家内に対する思いである。
 そうしてお互いが思いがあってもです、どこかがおうてないからそう言う事になって来るのです、ああたが涼しいかろう、ここでの方がよかろうち思うてから、わざわざここさに持って来たとに、ここでまた怒られるならこげな馬鹿らしい事はなかと、言葉に言うならば言うとこじゃろうと思うのです。ですから私し共がですね、そう言う様な事がですね、お互いの中にもあろうかと思うのです。
 この人も真心、こっちも真心ですけん、銘々の調子はおうとるけど、何かしらんこ親糸なら親糸に、調子がおうていないと言う感じなんです。ここん所を、私は今日考えさせられました、其の事から私しも家内の事を思い、家内も私しの事を思うてくれる、そしてそこに食い違ってえ、言い訳をするなと言う様な事になり、家内も心なしか襖開け閉きでんガチャンと腹けえたなと。(笑い)私が思うのです。
 それでお互いがそこで、不愉快な思いをしなければならん、よくよく考えて見ると、お互いの事思いおうてから、言うておる事が、そう言う風に入って行かないのです、こんな馬鹿な話しはないのです。だからお互いの生活の中にも、信心の中にも合楽のこの中にも、それがあるんじゃなかろうかとこう思うのです。何処がその違うたら、その様な事になるんだろうか。
 今日四時の、御祈念をさしてもらいます、四時半に下がりますから、下がらして戴いてから参り合わせた人にも、お話しさせて戴いた事で御座いますけど、御神前でお願いさして貰い、今晩の月次祭の事を、どうぞ月に4回の月次祭が、本当に有り難い神恩報謝の心で、お礼のお祭りが出来ます様に、皆んながその為には、おかげを受けておる事を実感しなければならん。
 何と言うてもさあ今日は月次祭ぞ、皆んなでお礼参拝させて貰うぞと言う所には、おかげの実感と言うものがなからなければです出来ません。もう俺が代表で参ろうと言う位の事にしかなって来ない是では私はお礼のお祭りになって来ない、只お月次祭が月並みの物に成って来る。本当の月並みの事只月次祭だからお参りしよると昼のお参りも夜のお参りも大して変わらん。
 お月次祭のお参りも、日頃のお参りもあんまり変わらん、感謝の思いを込めてそしてあのお祭りに盛り上がって来て、月次み月次みのおん礼のお祭りが奉仕される様なおかげが戴きたい。と何時も思うて其の事を願うのです。皆さんどうでしょうかね、お月次祭がはあ、今晩月次祭だからまいらんならんから参ってきよんなさるとですか、本当に1週間なら一週間、十日なら十日の間のあれやらこれやらの。
 おかげを受けておる事のお礼をまとめて、今日は申して戴く又自分達も申させて貰う。本当に感謝の一念を持って、お参りがでけておるですか、でけていないと言う事は、もう私しのお願いが、まだ足りない訳でございます訳ですけど、どんなに私が強い祈りを持って致しましても、お互いの心の中に、それを受け止めれる心が無かったら、有難いもんになってこないのです。
 せめて月次祭、せめて月次祭うらいはね、本当に出来るだけ家族勢を揃えてと仰るが、家族中でね日頃お参りしない家内も子供も、月次祭のお説教だけは頂けれる。お礼参拝させて戴いて、帰りには船にも車にも積めぬ程の、ご神徳を一家中の者が戴いて帰ろう、一家中で信心の共励をするのにも、一家中の者が頂いておらなければ共励のしようもない、それがです、神様を中心に申し上げた信心でなきゃ出来ませんのです。
 所謂神様が主の立場に御座らなければでけんのです。もう朝参っとるけんで俺ゃと言う事に成って来るのです。朝のお参りと月次祭のお参りは違う、内容が違わないけん、そうでしょうが皆さん、皆さん分っておられるでしょうが、分ったおるけどもその、実感があってここへお参りしとる人が何人あるか、そこん所を、今日私しは願った訳なんです。そしたら神様から戴きますのがですね。
 もう痩せた犬もう本当に痩せぇた犬がね、こんな大きな魚を咥えているんです。魚の方はブリブリ肥えてとる、なんか青い魚の、この位小振りの物を咥えている。もう犬はよとよとするぐらい痩せとる、皆さんどう言う風に解釈されますか。本当に私はそれを戴いてから、あいすまん事だなと私は思うのです。信心させて頂いておって戴いておるおかげと言うのは、それこそもう本当に大袈裟の様ですけれども。
 目には見えないけれども、神様の思いが掛けられて、おかげを受けておるそれこそ、目に見えるおかげより、目に見えないおかげの方が多いと、おっしゃるそのおかげを受けておるです、それは信心が分って行けば行く程、そのおかげを受けておると言う事が分って来るです。ところが信心が浅いから、おかげは受けとらん事思うて、まだ戴き足らん事ばっかり思うとる訳です。
 いわゆる今日のそこの犬と言うのはね、あの普通は煩悩などと言う様な表現するんです、今日は凡人と言う意味で戴きたい、凡人私し共言わば平凡な私し達、私し共が信心が出来ていない言わば凡夫と言う意味で戴いて戴きたい、凡夫の事で御座いますからおかげがおかげとあい分りませず。本当にどこに、お粗末御無礼があるやら分らんと、言うぐらいに分ったらいいけれども。
 凡夫で御座いますゆえに、願うた事が成就しないと、おかげが戴き足らん事ばっかり思うとる。この戴いておるこの魚もですね、咥えとかずに食べれば肥えもするのに、それはいっちょん食べよらん、咥えておるだけ、そしてからまあだ他におっきいとは無かじゃろかと探しよる感じ。ね。橋の上にどん立っとるならどう言う事になりますか、私小学校の時のうぅん修身の本かなんかにあったんです。
 犬が魚を咥えて橋の上にやって来た、所がもう一匹の犬が橋の向こうの方に魚を咥えておる訳です、自分の姿が水に写っとる訳です、そうですからもうひとつ向こうのを取ってやろうと思うて、ワンと一声挙げた、途端に自分の咥えておる魚までも水の中に落としてしもうたと言うお話しなんです。私共も例えばそれこそ橋の上にども行ったら必ず落とすでしょう、はあぁそこにあげな大きな魚が、まあだ落としてまではおらん。
 ですからね自分の足元から本当に信心させて頂く様になって、此の方の事を思うて見なさい、又日々の中の事にです、もうそれこそ微妙なまでの神様のお働きの中にあって、この様なおかげを受けていると言う事を、私は分らせて頂かなければいけん。それをそのおかげを受けておると言う事を戴かないから、益々是は痩せたさらばけて来る。それを戴こうとしないそれを分ろうとしない。
 自分の戴いているおかげと言うものを、気が付かんでおる、そしてまあだ他に大きな魚はなかじゃろかと言うようにうろちょろしとる、ね、是ではね、なる程月次みのお祭りが、有難い勿体無いの、所謂盛り上がる様な、有難い感激のお礼のお祭りになって来ない。さあお前も参って家族中でお礼を申しあげるぞと言う事になってこない。私しは思うです、めいめいがそんならそれぞれあんたの事思うとる。
 家内は私の事思うてくれとる、私は家内の事思うて、少しでもこの人が楽になろうと思うて言う事をです。何とか、かんとか言うてそげん、ああたん事はでけんと言うてそれを、受け入れ様としない。それをお前は、言い訳ばっかりしてと成って来る、お互いが思いおうておりながら、そこにすれ違うと言うのは、結局私にしても家内にしても、ここの所がもっともっと出来なければならない、ね。 
 受けておるおかげと言うものをもっともっと深く広く私自身が分らなければならないと言う事。私は、日々是はお願いさせて貰う事で御座いますけど、この様なおかげを戴いておると私は思うんですね、はあこの人は千のおかげを戴いていると思うんですね。所が参って来る人はですね、十ぐらいしか、千も万も戴いておると私が思うてもです、十ぐらいはおかげと思うとる。
 もう、そこへんの所の開きのある時の寂しさね、うんそりけち言うて、あんたこんなおかげ戴いとるばいち、まるっきり信心ば強要すると言うかね脅迫するかの様に思う、それで私は本当に考えて見れば見る程おかげ戴いとるもんなぁぐらいしか言わん、甘木の親先生がおかげを戴いてから、お礼行くともうそれをやっぱし繰り返し仰ったそうですね、おかげを受けておる、ね。
 おかげを受けておると思うたら、お礼が大事じゃんなぁそれを繰り返し繰り返しおっ者田そうです、お礼が大事じゃんなぁと仰った、本当にその甘木の親先生がおかげを戴いておると言う実感であったらこげなこっじゃでけんと言う事なんです。と言うて形だけが甘木の親先生の思うて御座る事だけがでけただけじゃでけんのであり心から、こん位の事さして貰わなければおられないと言うもんでなからなければならない所に、信心の例えば開きのある所を感じます、ね。
 こうやってお月次祭にもお参りさせて戴いて、十日間なら十日間の間の、お礼を申しあげさして戴く、あれを思い是を思いさして戴いて、おかげの戴き足らん事思うておる様な事をお詫びさして貰うて、改めて、神様におかげを受けておると言う事を、御礼を申し上げさせて貰うと、言う様な思いがここに50なら50、100なら100集まって、その盛り上がりがこのお祭りと言う事になって来なければならない。
 そこの所がね欠けておる、私し共が凡夫である為に、おかげをおかげと分らない。氷山の一角なら一角だけ、出ておる所だけしかおかげと思うていない。どがしこ戴いても戴き足らん事思うとる。ですから目に見えない所のおかげが、段々分って行くと言うが、信心が分って行くと言う事なんです。だから神恩報謝の心が熱ーくなって来る訳なんです。そう言う私ですね。おかげ頂いて戴きたいと思うとこう思うのです。
 それには先ず、信心の調子が親糸に合わなければいけん。今合楽ではどう言う様な信心をお互いが戴いているか、そして自分達の戴いているおかげをよくよく分らせて貰うて、本当におかげを受けておると言う実感を持ってお祭が仕えられる。日々信心の稽古をさせて頂いておると言う事がです、有難いとこの月次祭に現われて来る、とてもほんな事もう時間どん切らす様な事があっちゃならん。
 そりゃ仕方が無い、あんたの信心そん位だと、成るんですから仕方が無いですけども。そこで私し共、今日本当に合楽の激動期それは、どう言う事を意味するかと言うと、信心が中心になる為の信心に切り替えられる、神様がご中心の信心か、人間私し共が中心の信心か、今までは確かに人間中心の自分本意の信心であったのを、合楽に移ってからこっちはお互いがです。
 勢を揃えて神様あっての私である、信心あっての生活であると言う信心にならせて戴いたら、忙しいとか都合とか言わんで済むおかげ済むおかげ戴いたらです、願わんでも済む様なおかげ願わんでも頼まんでも、戴ける様なおかげが必ず約束されてるんですよ本当に、ね。ですから本当の信心生活、今日上滝さんが光橋先生達に言付けした様にです、今度私が再起のおかげ戴いたら今までの生活の中に信心があった生き方から。
 信心の中に生活がある様な信心に切り替えさせて戴く、其の事を親先生にお届けして下さい、と言う様なおかげになって来るんだと私は思うのです。そこに問題は解決するんだ、そう言うひとつ線に沿うてから、調子が合わせて戴く所からなんとも言えないリズムと言うものが出て来る調子が出て来る、仕事の上にも調子が出て来る、家庭の上にも調子が出て来る、そう言うおかげを、お互いがひとつ願いとしての、信心にならせて頂かないかんと思うのです。
 私はこの本気でこの何て言うんですか、ひと修行させて貰うと言うんですか、この活き活きとした修行がでけますと、何かひとつの勢いが出てまいりますね、言う事にも何かこう断言的な事、おかげになると言った事が言えれる様になる。皆さんでも目の詰った、信心しよるとそれが言えれるでしょうが、二三日前からここの中学生の幹部少年少女会の幹部が、中学三年生の者だけで四名甘木の教会で講習会が御座いました。
 二泊三日で言わば大変鍛われて帰って来とるそれから一日ここでまあだ、しかしやっぱりもう中学三年ですかね皆んな考えて見ると、それが当たり前ですけども子供子供思うておるからですね。言うたりここでお届けしたりするのを聞いてから、改めてあぁ育っておるなおかげ戴いておるなと思うんですよ。今日どうして皆んな集まっとるの今日はもう帰ってから会議から会議だったから今晩泊まって貰うとこう言う訳なんです。
 幹三郎が行っとります、久富先生の5番目ですか、一番下の息子が行っとる、中学校へやっぱ3年生なんです。そして帰って色々と決議した事が、あそこの掲示板の所に貼り付けてある字なkkまも、それは大人でも勝たんごたる字を書いちゃる、その文章が私は気に入ったんです、一番最後の所に、どげん書いちゃるかと言うと。今度のその会合に出て来なかったり、通知もせずに出て来なかったら。
 もう会員とは認めんと書いてある、そういう事が平気でね、書けたり言えたりする様になる、自分達が3日間一生懸命、鍛われて来とるでしょうが、そして合楽の、少年育成の上にです、もう自分達が、リーダーになってひとつ、習おうて来た事を、皆んなにも教える。もう張り切っているわけなんです。ですからもうとにかく、皆んなをここに集めたい訳なんです、そして皆んなに聞いて貰いたい、教えたい訳なんです。
 だからもう通知もせんで来んもんは、もう少年少女会の会員じゃない、少年少女会の会員とは認めない、と云う様な事が最後に書いてある、あれは生き生きとした言わば子供なりの信心が出来ておる、あれが書けるのです。お互いが、生き生きとしたものを失くしたらもう駄目です、しかもその生き生きとしておる所の精進がです、神様を中心に申し上げた所のものでなからなければならん。
 先程お祓いがあっておった様ですけれども、明日から丸少、それから学生会ですか青年会合同でキャンプファイヤーか何かが、私はどういうものか見た事がないですけれども、やるそうです、ですからお互いもう銘々が育成委員であるとひとつ思わして頂いて、次の時代を担う青年、少年育成会の方達が、次の信心を頂いて行かれる方達の信心が教会を中心に、もう夏休みも最後の仕上げ的なもので御座いましょうね。
 でそういう意味でこの集いをするそうで御座いますから、どうぞ皆さんのご協力を得て、そしてほんとに子供達の心の中に夢が持てる、ほんに信心ちゃ有難い、信心を頂いている親を持っておる事が有難い、信心の兄やら姉をもっておる事が有難いと、子供ながらにも感じられる様なおかげを頂いて貰いたいもんだと思う。為には皆さんのご協力をお願い致します。
   どうぞ